釜石鉱山(旧釜石鉱業所)は、戦後「鉄・銅」併産の国内最大規模の鉱山として発展したが、
昭和50年代以降生産規模を縮小し、昭和54年(1979)日鉄鉱業(株)から分離し釜石鉱山株式会社となり、
平成4年(1992)に銅を、平成5年(1993)には安政年間以来130年余の鉄鉱石採掘にピリオドを打った。
総採掘量は約7千万トン、維持坑道は150Kmにも及ぶ。
現在は、坑道より湧き出るミネラル水「仙人水」の販売を行っている。
釜石鉱山選鉱場跡 | 釜石鉱山選鉱場跡 |
釜石鉱山選鉱場跡 | 沈殿池 |
元山通洞坑 | 仙人通洞坑 |
釜石鉱山展示室・鉱山事務所 | 貨車基地跡 |
大橋高炉跡 | 大橋高炉の碑 |
大橋高炉の碑には次の様に刻まれている
史跡釜石鉄山大橋高炉跡
此処は日本近代製鉄発祥の地である。大橋山一帯は磁鉄鉱と黄銅鉱を主とする鉱石が豊富に理蔵されている。
これが享保12年 (1727) 公儀御薬草御用阿部友之進によって発見された。これを起因に、安政3年 (1856)
11月、大島高任は貫洞瀬左衛門とともに高炉築立を藩に願い出て許可をうけ、翌年苦心のすえ1座が完成。
安政4年(1857)12月1日 歴史的洋式高炉の出銑に成功した。 後 慶応年間迄に大橋に3座の高炉が
構築されている。
現在12月1日を「鉄の記念日」と定められている。
昭和58年10月 釜石市教育委員会
橋野1番高炉跡 | 橋野2番高炉跡 |
橋野3番高炉跡 | 安政時代の橋野鉱山図 |
史跡 橋野高炉跡 昭和32年6月3日指定
大橋高炉の成功により、南部藩も事業として乗り出し安政5年(1858)、橋野に仮高炉を築造した。操業は順調に行われ、
万延元年(1860)にかけて1番、2番高炉を築き、仮高炉を大改良して3番高炉とした。のちに個人経営となり、この3番
高炉のみ明治27年まで稼働した。
盛業の時は年間約25万貫(約938トン)の銑鉄を生産した。各高炉は、30〜40日ごとに改修され年間実動250日
の操業能力を持っていた。牛150頭・馬80頭・人員約1000人であった。
従業員は、鉱石採掘・駄送・製品搬送に500人、製炭300人、高炉場では銭座を含み200人の計1000人が作業
に当った。橋野高炉跡は、釜石から北へ約36Km、標高560mの山地にある。
大橋に3座、橋野に3座、左比内に2座、栗橋及び砂子渡に各1座合計10座が良質豊富な鉄鉱石の産地を背景にいずれも
高任の指導によって建設された。
これらの高炉は鉄鉱石を原料とし、銑鉄の製造に成功した我が国最初の洋式高炉である。
かくして我国近代鉄鋼業は深い山々に囲まれたこの地にその発祥をみ、やがて明治維新を迎えるや、官営製鉄所の発足と
なり、釜石製鉄所の礎を築いたのである。
しかして、往時の偉業をしのび得るものは、僅かにこの遺跡あるのみで、我国の鉄産業発達史上唯一の文化遺産として、
この史跡のもつ意義はまことに大きい。
大洞 | 元山 | 硫黄山 | 新山 | 赤岩 | 佐比内 |
青ノ木 | 雄岳 | 細越 | 高前 | 六黒見金山 | 和山七ヶ山 |
栗橋 | 栗橋上 | 沢田 | 明神平 | 櫓沢 |
佐比内坑に通ずる入口の建物 林の中になってしまった。 |
釜石市立鉄の歴史館 | 釜石市立鉄の歴史館 |
入館料 平成11年4月1日現在
区 分 | 個 人 | 団体20名以上 |
---|---|---|
小・中学生 | 150円 | 100円 |
高校生 | 300円 | 200円 |
一 般 | 500円 | 400円 |
私は、釜石には昭和50年代〜昭和60年ころ迄訪れていた。当時は街も活況に富み鉱山の選鉱場も盛んに操業していた。
釜石製鉄所も高炉が2基操業し夜中でも赤々と出銑されていた。釜石港には大型の鉄鉱船や石炭やコークスを満載した船が
停泊していた。昭和60年高炉が1基停止する話があり「寂しくなるねっ」と街で囁かれていた、今回20数年ぶりに訪れ
てみたが浦島太郎のようで当時の活況は嘘のようであった、時代が変わってしまったと感じるのは私だけでしょうか?。
釜石鉱山・大橋高炉跡にはJR釜石線の陸中大橋駅で降りるのがよい。
橋野高炉跡には車で東野市より入るのがよい、橋野には車を利用しないと行けない。
鉄の歴史館にはJR釜石駅からバス又はタクシーですぐの場所、国道45号線の釜石大観音の近くにある。