阿仁鉱山

秋田県北秋田郡阿仁町 阿仁鉱山

up date 2000/05/12 拡大写真リンク修正

阿仁鉱山は延慶2年(1,309年)阿仁金山として開発されて以来、次々と銅山が開発され享保元年(1,716年)佐竹藩の 産銅は全国第一位を占め、阿仁銅山は藩内の主位で、日本三大銅山の一山として全国的に名が知られていた。

産出鉱物
金・銀・銅・鉛・亜鉛

小沢鉱山跡
現存する鉱山跡です
伝承館
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阿仁鉱山は、次の六ヶ山を総称し阿仁鉱山と呼ばれています。

小沢銅山
寛永14年(1,637年)、或は寛文2年(1,662年)より草分け切開いたといわれ高岡八右衛門の
稲荷の霊けんによる発見物語りがあり、阿仁銅山第一の山で、入口に番所お台所があって吟味役がいた、
元禄、宝永の頃戸数300戸、大正3年3,253人と記録

真木沢銅山
古くは板木沢金山(阿仁金山)として名が知られ総山合せて2,500余人と記録され、銅山は宝永2年
(1,705年)泉屋吉右衛門の開拓といわれ、元文2年(1,737年)直山となり、戸数150戸で
入口には番所お台所があり、吟味役は小沢と交互に詰めた

三枚銅山
古くは金山として発見され、寛文7年(1,667年)大阪屋久右衛門手代七部右衛門の開拓といわれ、
宝永4年(1,707年)直山となった、戸数120戸、人数1,004人の記録がある

萱草銅山
寛文10年(1,670年)羽立平の開山に始まり、寛保3年(1,743年)直山となった
明治27〜8年頃盛況で戸数403戸と記録されている

一の又銅山
宝永7年(1,710年)長井九十郎、中村市兵衛の開拓といわれ寛政の頃戸数100を越えた

二の又銅山
宝永4年(1,707年)長井九十郎、中村市兵衛の開拓といわれ寛政の頃盛況であった
戊申戦争当時、藩の軍用金を鋳造した


★伝承館・異人館

阿仁町郷土文化保存伝承館は阿仁鉱山の貴重な史料の展示がされています又、萱草の三匹獅子、根子番楽面
なども展示されている。
伝承館の右隣には異人館(国重要文化財指定)があり明治15年ドイツ人鉱山技師アドロフメッケルらに
よって建設された総面積286平方メートルの煉瓦造りの洋館である。

秋田県北秋田郡阿仁町銀山字下新町41−22
TEL:0186−82−3658(代)
休館日:毎週月曜日定休、但し祝日の場合は翌日及び年末年始12月28日〜1月3日
開館時間:午前9時〜午後4時

伝承館・異人館入館料
 区 分  個 人   団体21名以上 
 大人(一般)  210円   150円 
 高校生、大学生、各種専門学校  100円    80円 
 子供(小学生、中学生)   50円    40円 


★阿仁鉱山の歴史

延慶2年(1,309年)金山発見
嘉慶年中(1,387年)湯口内続き向山に銀山発見
寛永14年(1,637年)大阪の商人 北国屋吉右衛門手代 高岡八右衛門小沢銅山発見
正保年中(1,644年〜1,647年)江州の商人 青山清左衛門向山砥沢銀山開山
元禄15年(1,702年)阿仁銅山佐竹藩の直営となり、銅山奉行の支配となる
享保元年(1,716年)産銅日本一となる
明治4年(1,871年)秋田県庁の経営となる
明治8年(1,875年)工部省鉱山寮の経営となる(官営)
明治18年(1,885年)古河市兵衛に払い下げ、古河阿仁鉱山の経営となる
昭和6年(1,931年)休山(昭和10年復活)
昭和45年(1,970年)閉山となる


阿仁鉱山の最盛期は、江戸時代から明治時代であり数多くの鉱山跡がありますが解りやすいのは小沢坑跡ぐらい となっています、冬期間は国道105号線を走るのはきつい。

阿仁鉱山に行くには、東北自動車道の盛岡インターで降り国道46号線で角館から国道105号線を阿仁町に行くか
秋田自動車道の大曲インターで降り国道105号線を阿仁町に進む。


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